褒められなくても、いいのにね
あなたは、最近だれかから褒められましたか?
今回は、
ある男の子の何気ない言葉に ハッとさせられた出来事をもとに
“褒められる”ってなんだろう・・・と考えていきます。
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ある日、夕方のニュースで
「代理ミュンヒハウゼン症候群」が取り上げられていました。
※とても悲しい出来事の文脈で出てきたキーワードですが、
その事実関係や関連性など報道の確かさが私には分かりません。
ここではあくまでも心理士の小さな気づきの範囲でお話しします。
私は心理士という仕事柄、
「代理ミュンヒハウゼン症候群」を知っていますし、
このキーワードを見聞きするだけでも
その難しさや複雑さ、漂う悲しみや苦悩が思い浮かびます。
私が急に真剣な顔してテレビに向かっていたからか、
そばにいた5歳の甥っ子が
「ねえ、このニュースは何の話をしているの?」と尋ねてきました。
私は5歳児にも分かるような言葉に噛み砕きながら、
「代理ミュンヒハウゼン症候群」を説明しました。
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R君が風邪をひいたら、ママはとっても心配するよね。
ママは、R君が早くよくなるようにって、一生懸命お世話してくれるよね。
そんなママのことを、周りの人が「えらいね」「がんばってるね」って
いっぱい褒めてくれることがあるんだよ。
そしたらママが、「あー、褒めてもらえたー」って嬉しくて、
「また褒めてほしいなー」って思うようになって、
いつの間にか、
R君がしんどいよーってなってでも
「ママ、また褒められたいな」がやめられなくなる。
そんなの、R君、どんな気持ちだろう?
・・・悲しいよねえ。
でも、褒めて欲しくて、褒めてもらうために、
本当はダメなことだけど「ああ、またやっちゃった」になる。
このニュースは、そういう話。
悲しいなあと思って、気になってよく聞いてたんだよ。
※代理ミュンヒハウゼン症候群の正式な解説ではありません。
同情や称賛、周囲に“認められたい”という思いのことを
幼い子にも伝わりやすい“褒められたい”としました。
実際は、このような安易な言葉で解説できるものではありません。
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この説明を聞いた5歳の甥っ子は、
ほんの少し沈黙して、「褒められなくても、いいのにね」
と言いました。
これ以上の感想も質問もなく、
たった一言、「褒められなくても、いいのにね」と。
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この言葉に、私はハッとさせられました。
私たちはいつから「褒められたい」と思うようになったんだろう・・・と。
臨床心理学を専攻し、たくさんの臨床場面を重ね、
学術的にも経験的にも、人に承認欲求があることは確かだと言えます。
もちろん私も、
周りから褒められたい、認められたい、たくさんの称賛が欲しい、
と思っている一人です。
そして、このいわゆる承認欲求は、
あらゆる行動の動機付けにもなります。
動機付け、とは
何かの行動を起こす時・それを続ける時などに
モチベーションとなる事柄・きっかけのことを言います。
・テストでいい点をとってお母さんに褒められたいから勉強を頑張る
・営業成績でトップになって社内で認められたいから努力する
・美人だね、憧れます、いつもステキです、と言われたいから自分磨きをする
このような感覚は、多かれ少なかれ誰にでもあるでしょう。
もちろん、承認欲求のみが行動の動機付けになるわけではありません。
いろいろな動機付けが複合的にある中で、
「褒められたい」「認められたい」という感覚も伴っていることは
誰にでもよくあることです。
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ここで、もう一度、
「褒められなくても、いいのにね」
という言葉を思い出してみましょう。
私たちは成長過程のいつから、
褒められることに価値を見出すようになるのでしょうか。
生まれたてほやほやの赤ちゃんに向かって
「なんで歩けないの?」「泣いてばかりで、馬鹿なの?」
なんて言う人はいませんね。
ほんのちょっとの成長でも、
「できたね!」「かわいいね」「すごいね」「上手!上手!」
と、たくさんの褒める言葉が出てきますね。
きっと、生まれてすぐはこうやってたくさんの褒められる経験をします。
そして次第に、叱られたり、勝負に負けたり、自分の無力を思い知ったり、
褒められる・認められるとは少し異なる経験も重ねていきます。
必ずしも自分の言動の全てが周囲の承認・称賛に値するのではない、という
ちょうどいい承認欲求と、その折り合いをつけながら、
たまにはごまかしながら、生きているのかもしれません。
そう思うと、私たちはいつもいつも褒められなくても
別に全然もんだいなーし、なのかもしれません。
褒められなくても、いいのにね。
まさにそういうことのような気がしてきます。
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周囲から褒められる・認められることよりも、
大事なことがあります。
それは、自分で自分を労うこと、なのではないでしょうか。
自分で自分を“褒める”も大事だとは思いますが、
“褒める”だと、何かが出来ていないといけない、
褒めるに値する成果が出せていないといけない、
というニュアンスをなんとなく感じます。
“労う(ねぎらう)” であれば、
「お疲れ〜っ」ということです。
何かの勝負事で「おめでとう」と称賛されるのは1位の人だけ。
でも、「お疲れさま」と労われるのは1位以外のみんなも。
なんだかうまく言い尽くせないニュアンスですが、
こんな感覚ではないかと思います。
人から褒められなくても、
そのことだけに大きな価値を見出さなくても、
自分で自分を労うことができたら、
それが何よりも大切なのではないでしょうか。
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代理ミュンヒハウゼン症候群のキーワードから
飛躍した話になってしまったかもしれません。
代理ミュンヒなんちゃらなんて自分には関係ないよ、という方も
「周囲に褒められたいがために頑張りすぎちゃった」
「ガムシャラに努力してるけど、認めて欲しい以外の理由がない」
なんてことは、ちょっと思い当たる方もいるのでは?
褒められなくても、いいんじゃない?
褒められなくても、いいのにね。
・・・あなたの心の片隅に
この言葉をおいといてもらえたら嬉しいです。
(皆さんが読んでくれるかはおいといて、
ここまでかいた私、お疲れさま!)
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